クソみたいな感動話と出来すぎた美談
最初に"the wall"というアルバムを聞いたとき、ぼくは高校生だったが、素直にその音楽を受け入れることができなかった。ピンクフロイドの代表作であるこのアルバムは、コンセプトばかりが先行し、音楽が取り残されているように感じたからだった。
いわゆる様式美的なロックや、大仰なプログレッシブロックをダサいと思うようになり、ローリングストーンズやポリスのような、シンプルなリズムのロックに興味を持ちはじめていたその頃のぼくにとって、"the wall"は古いタイプの音楽のように聞こえた。しかしこのアルバムは、その後ぼくにとっての金字塔となる。
ロジャー・ウォーターズの描く世界観はシニカルで絶望的だ。そこにハッピーエンドは存在せず、ものごとを徹底的にネガティブな視線でえぐりとる。そうした作風は、前作の"animals"あたりで顕著となる。
だけどぼくは、そんなピンクフロイドの、というより、ロジャー・ウォーターズの音楽に触れるたびに、すっきりとしたすがすがしい気分になる。なぜだろう。陰惨ともいえるその世界観が、ぼくをむしろ元気づけるのだ。
アルバム"グランジ・ソウル"を聞いてくれた人の多くは、プリンスの影響下でぼくがそれを制作したであろうことを指摘する。それはその通りだ。むしろそのことをぼくは誇りに思う。しかし、赤裸々な人々の恥部や、人間が人間として越えられない一線のようなものについて歌っているのは、あきらかに、ロジャー・ウォーターズの影響によるものだ。
人が生きていくうえで、クソみたいな感動話や出来すぎた美談が、本当に必要なのだろうかと思いながら、ぼくは曲を書いた。そして、そうしたものや、そうしたものを安易に受け入れる人たちのことを、徹底的に攻撃した。
その結果、アルバムが不評でも全然かまわないと思った。むしろ、不評こそが最高の評価だと思いながら制作した。とにかく、言いたいことを全部言い、やりたいことだけをやろうと思った。カート・コバーンが言うように、偽りの自分を愛されるより、本当の自分を嫌われるほうがよっぽどましと思っているわけだから。
アルバムは予想外に好評だが、ここで一度過去のレパートリーを整理して、シンガーソングライター結城義広としての立ち位置を明確にする時期ではなかろうかと考えている。
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