まともな性癖がむしろコンプレックス
尊敬する作家の村上龍さんが、ご自身のエッセイで、自分の性癖がノーマルであることを悔やむという趣旨のことを書いていた。そうか。それなのに、あんなにエキセントリックで、気持ち悪くもある作品が書けるなんて。そして、さらにその先の表現を見すえて、自分の凡庸な性癖を邪魔だと思っているなんて。さすが、最年少で芥川賞を取った人(当時)は違うな、とぼくは思った。
それ以来、ぼくはアブノーマルな人たちを羨ましく思うようになった。彼らは、ぼくが体験する以上のなにかを、確実に体験している。ぼくは、自分がなんだか無味乾燥でつまらない存在のように感じた。
この点において、ぼくは表現者としての劣等感を持っている。
"death feeling in the sky"のMVは、見たという数人から、その内容が衝撃的だったと言われた。衝撃的。なんとすばらしい響きだろう。そう思ってもらいたくて、あのMVを作ったのは確かだ。でも、本当に衝撃的だったのだろうか?当初、ぼくが思っていたとおりの衝撃性が、そこにあったのだろうか。
アルバム"グランジ・ソウル"やそのジャケットにおいても、ぼくは自分を破壊することを念頭において、さまざまな画策をしていた。今までの自分との決別を表現するために、バラバラに破壊された自分を見せようとしていた。
たとえばMVのラストシーンで、ぼくの首が切り落とされ、全裸で殺害されてしまうとか、それくらいの衝撃度のあるものを作ろうと思っていた。
もちろん、そんなノウハウはないし、作ったところで、動画サイトで削除されるだろうから...という言い訳はいくらでもできる。しかし、作れなかった本当の原因は、ぼくがノーマルな人間だからだと思っている。ぼくがノーマルな人間だから、ぼくのまわりに集まるミュージシャンもスタッフも、みんなノーマルな人たちなのだ。
ぼくは本来、ぜんぜんエキセントリックではない。
村上龍さんは、こうも言っていた。表現において邪魔になるのは、自意識だと。つまり、自分から自由になる必要があるのだと。
ぼくはむしろそのことしか考えていない。表現者は、作品ありきだ。自分のことは、どうでもいい。名声だとか、肩書きだとか、プライドだとか、評価だとか、そんなことはどうでもいい。そんなことを気にしているヤツは、ただのナルシストだ。せいぜい知り合いを集めて、学芸会でもやっていればいい。そしてみんなで褒めあって、感謝でもしていればいい。
ぼくは人から嫌われようが、気持ち悪がられようが、変態扱いされようが、公安からマークされようが、世界から無視されようが、作品の表現に必要なことはなんでもやる覚悟だ。
シンガーソングライターの多くがそうしているようなやりかた。人間としての自分を好きになってもらうような、パーソナルなキャラクターを商売道具にするようなやりかたを、ぼくは嫌悪している。
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